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Vol.56「過去原稿再録:『ef』(2002年9月号)松尾潔的音楽旅日記より」

 7月、銀座の昼下がり。雨やどりのために立ち寄ったCDショップで『EL GUSTO ES NUESTRO』なるライブ盤に出会いました。このジャケットの顔ぶれには見覚えがあります。そう、あれは今から6年も昔、8月のことでした・・・・・・。

 その夏、僕は初めてのロンドン出張を前に気分が萎えていました。アメリカ黒人文化の信奉者だったがゆえに、渡米歴は数十回ながらヨーロッパの地を踏んだ経験は一度もなかったのです。ところが、いざ着いてみればロンドンの街は最高で。銃の所有が堅く禁じられていることが、これほどまでに旅行者をストレスから解き放ってくれるとは。この感覚は合衆国文化への懐疑心を生み出したと同時に、生来の放浪癖に火をつけました。どこかヨーロッパのビーチへ。そんな思いに囚われてしまったのです。

 1週間ほどのロンドン滞在予定も残すところあと1日となった朝、旅行代理店が軒を並べるボンド・ストリートへと出向きました。ロンドン発の安価なパッケージツアーを探すために。予備知識はありません。ただ明るい店構えを選んで入りました。

 中にはいかにも『ミスター・ビーン』に出てきそうな飾り気のない中年女性がひとり。神戸牛を思わせる堂々たる体躯はあくまでパソコンに向けたまま、こちらに職業的な笑顔を投げかけます。僕は安堵を覚え、カウンターの椅子に腰を下ろしました。安くて近いリゾートで、明日出発、1週間のパックはあります?この後会議があるので10分間で支払いまで済ませたいんだけど。僕のそんな性急な申し出に彼女は微苦笑を返し、これまた職業的な訓練を感じさせる素早い手つきでキーを打ちます。

 「あなたにぴったりの場所があるわ」そう言って教えてくれた場所はアルガルヴェ。単にABC順で筆頭なのでしょうが、寡聞の僕でさえ知っているポルトガルのリゾートです。いいなあ、それ…と言いかけた僕を彼女が遮ります。「あらごめんなさい。もう締め切ってるわ」

 じゃあ他は?もうどこでもいいんだから。そう急かす僕には一瞥もくれず、彼女が次に選んだのはアリカンテ。聞き慣れぬ地名です。なるほど、アルファベット順で2番目、なのでしょう。

 「ここならひとり分だけ空いているわ。出発は明日の朝5時半だけど、大丈夫?」もちろん。かくして僕は在店時間計7分で旅行クーポンを購入、店を後にしたのでした。

 翌日。空港に着陸した驚いたことには、ポルトガルと思い込んでいたアリカンテはスペインの都市なのでした。無知と先入観とのコラボレーションは見事功を奏したわけです。前夜ソーホーのディスカウント書店で買った分厚く重い英葡・葡英辞典は、1ページも開かれることなく空港のゴミ箱へと直行しました。

 バレンシア地方第2の都市であるアリカンテ。ラ・コスタ・ブランカ(白い海岸)と呼ばれるこのエリアは、優雅なリゾートとはとても呼べない下世話な観光地でした。トップレスのヨーロッパ女性も毎日目の当たりにすると眼福の意味を失います。浮き足立った気分が落ち着きに変わり、ようやく冷静を取り戻した頃にはロンドンへもどる時が来てしまいました。ついにアジア系の観光客に邂逅せぬま1週間は過ぎました。

 ある夜、地元の闘牛場に人が連なっていました。どうやら観光客ではなく地元の住民が大半を占めている模様。これが夜の闘牛見物かと。列にまぎれて当日券を入手し、何とか入場することができました。はたして、僕が闘牛と思っていたそのイベントは、スペインを代表する女性シンガー、アナ・ベレンと彼女を慕う男性シンガー3人のジョイントコンサートでした。

 冒頭でふれたアルバムは、そのツアーの実況録音盤です。もっとも、6年前の僕には、2002年の銀座であの顔ぶれに再会できるなんてとても想像できませんでしたが。CDになった音を聴き、今になってあの場所に流れていた時間が豊かなものであったことを強く感じるのです。

※ 今週は松尾潔多忙につき、書き下ろしコラムはお休みし、過去の原稿を再録いたしました。

 


女性シンガー、アナ・ベレンを中心としたスペインの人気歌手4名が’96年の8月から9月にかけて行ったジョイント・ツアーのライブ盤。豊かな声、成熟した色気を堪能。

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