Home > Archives > 2005-02-16

2005-02-16

Vol.4 「過去原稿再録:『SWITCH』2004年1月号より」

 2002年春の某夜、私はソウルのグランドハイアットのバンケットホールで円卓に向かっていた。私がキム・ヒョンソクと共同プロデュースを務めた日韓共催W杯サッカー・テーマソングのお披露目なのである。小泉純一郎や森喜朗が出席するとあってホテルには厳重な警備体制が敷かれていた。実際にホール内は日韓紳士淑女録といった趣だったが、私の視線は専ら壇上のひとりの女性に注がれていた。親善大使として藤原紀香と共に司会進行を務めた女優キム・ユンジンその人である。当夜の華だった。

 彼女がヒロインを演じたカン・ジェギュ監督作品『シュリ』が日本における韓国映画ブームの先鞭をつけた、というのはもはや定説である。私はその前史として「日本側からの韓国映画」としての『月はどっちに出ている』のヒットなどを加えたいが、一般的には『月に…』は「在日文学」にならって「在日映画」という別軸で語られるようである。確かに、在日コリアンというテーマを撮った作品としては、今村昌平や大島渚の諸作をはじめとして井筒和幸の『ガキ帝国』や小栗康平の『伽耶子のために』から行定勲の『GO』に至る傑作群の系譜があるわけで、これはこれでひとつの歴史とみなされるのだろう。

 『シュリ』の新しさは、「米ソ」の代替構図としての朝鮮半島の「南北」対立を娯楽映画の題材に昇華させた点だ。ソビエト連邦の崩壊によって東西問題が急速に終焉に向かったという時代背景を得てこの映画は日本でヒットした。実際、日本でのロードショー公開時の若い観客の中に、このドラマの大前提である南北対立と日本の関係についてどれくらいの予備知識があったかは疑問である。映画を観終えても最後まで自国・日本のことは思い出さなかったかもしれない。それはつまり007シリーズを観るがごとく罪悪感を伴わずに映画を楽しめるということであり、「韓国映画おもしれえっ!」という屈託のない感想を生み出すということでもある。その意味で『シュリ』の図抜けた娯楽性はハワイやグアムといった「かつては戦地、今は観光地」における海の青さと同義である。

 私が韓国の音楽や映画に興味を抱くようになってからもう10数年が過ぎた。これには二人からのはっきりとした影響がある。ひとりは作家の関川夏央氏、そしてもうひとりは中学時代からの友人だ。私とは違いきわめて出来のよかった彼は京大に進学してアジア政治史、とりわけ韓国の議会政治に興味を持ち専攻の対象とした。1991年だったか、彼が大学院に進み渡韓歴をふた桁に増やした頃、私を旅に誘ってくれた。いわく「アメリカばっかり行ってもしょうがないでしょ」と。88年頃から米国の黒人音楽についての雑文書きをはじめた私は、当時1年の3分の1をNYやLAでの取材に費やしていたのだが、この時期に仕事抜きで韓国の地を踏んだことが、かの地の音楽や映画について深入りするきっかけとなった。確か最初の渡韓でLPを50枚ほど購入してきたのではなかったか。当時親しくしていたライターの石丸元章の誘いもあり、それから歌舞伎町の韓国ディスコに顔を出すようになって、ついには大久保に引っ越すに至った。

 友人はほどなくして学究の徒としての生活を休止し、国際交流基金に職を得た。そんな彼が「ウチと関係あるんで」と誘ってくれたのが94年4月から5月にかけて千石の三百人劇場で催された上映イベント『韓国映画の全貌』である。忙しい彼とは初日の『キルソドム』(イム・グォンテク監督)を一緒に観ただけだが、私が韓国映画熱にうなされるにはこの1本で十分だった。今思えばイム・グォンテクの手腕よりもむしろソン・ギルハンの脚本に強く惹かれていたのかもしれないが。

 実はそれまでにも『鯨とり』『ディープ・ブルー・ナイト』といった監督ペ・チャンホ・脚本チェ・イノのコンビ作品をビデオで観てそのスタイリッシュな映像とストーリーテリングの妙にシビれまくっていたのだが、『キルソドム』の重心の低い感じはまた異体験であった。それからの私はレギュラーを除きすべての仕事をキャンセルして千石に通いつめる毎日。ついには上映作品全50本のうち47本を観た。劇場前の売店で五目にぎりと干瓢巻きを買い込むのが常だった。あの暗がりが今でも懐かしい。

 アジア映画社渾身のセレクション50本のうち、私の心を最も強く揺さぶったシーンは故ハ・キルジョンの79年作品『ピョンテとヨンジャ』(これも脚本はチェ・イノ)で主人公ピョンテが最愛の恋人ヨンジャの結婚式場までソウルの街を駆け抜ける場面である。『卒業』の花嫁略奪シーンをなぞっていることは言うまでもないが、建設ラッシュに沸く70年代末のソウルの街が何より雄弁だった。

 がしかし、この1本となるとイ・チャンホの80年作品『風吹く良き日』に尽きる。これは私にとってはもうR&B史におけるサム・クックの聖歌『ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム』みたいなものだ。アン・ソンギという不世出のスターの地位を決定づけた作品、ということを後になって知ったが、西城秀樹似の容貌のせいもあって強いパッションを感じさせるアンの演技と存在感はもうたまらなかった。この作品と、同じイ・チャンホの『馬鹿宣言』にはもう完全にひれ伏しました。

 2001年、そのアン・ソンギが主演陣に加わったキム・ソンス監督の時代劇大作『武士(MUSA)』が韓国で公開された。その音楽監督の鷺巣詩郎氏と親しい縁で、その夏ソウルで開かれた試写に私は招かれた。鷺巣氏に紹介されてキム監督と交流を深めた私は、その数ヵ月後冒頭に記したW杯テーマソングの総合プロデュースを委ねられるにあたり、公式フィルムの監督をキム氏にお願いすることにした。これはW杯の各試合会場でも流されたのでご記憶の方もいらっしゃるだろう。ちょっとサム・ペキンパー風味もある、キム監督ならではの味付けが施された佳品であった。だが、残念なことにこのフィルムは曲中に日本語が含まれているという事情があり、韓国国内ではテレビ放映も試合会場での上映も目処が立たなかった。キム・ソンスがフィルム制作中に最も気にしていたのはそのことだった。完成後、結局自国では放映も上映もなしと決まって、彼は大きく嘆いた。音楽は国境を越えても言葉には壁があった。

 ソウルでシャンペンを呑みながらキム・ユンジンの美貌を眺める私は確かに幸せだった。が、その胸には無念が幾度も去来していた。現在の日本における韓国映画ブームに複雑な思いを抱いてしまうのは、以上のような個人的な事情にも拠る。

*今週は松尾潔多忙につき、書き下ろしコラムはお休みし、過去の原稿を再録いたしました。

Home > Archives > 2005-02-16

Return to page top