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2005
Vol.32「過去原稿再録:『BMR』(1990年1・2月合併号) 1989年 年間ベストCD / レコード」
- 2005-09-25 (日)
- column
1位 ANGELA WINBUSH:It’s The Real Thing
2位 ALYSON WILLIAMS:Raw
3位 TROOP:Attitude
4位 ROBERT BROOKINS:Let I t Be Me
5位 Daryl Corey:I’ll Be With You
6位 KOOL & THE GANG:Sweat
7位 PIECES OF A DREAM:’Bout Dat Time
8位 TERRY TATE:Babies Having Babies (single)
9位 DARRYL PAYNE:Past, Present & Future
10位 LEOTIS:On A Mission
歌唱力だけがシンガーの評価基準ではありません。今更乍らその事を痛感した1年でした。教えてくれたのはやっぱりボビー・ブラウン。人気定着の今年は凄みすら感じました。
ベスト1を争うのは奇しくもイニシャルを同じくする2人の女性シンガー。シャロンも良かったね。オーティスを取り上げた、巷で話題のACブラックよりも、ジャクスン5に素晴らしい解釈を加えてみせたトゥループを絶対支持。リメイクものではステット+フォースMDズ”Float On”もよく使ったっけ。新しめではズルックの感覚が気に入ったし、CJアンソニーにも大器を感じたものです。
最後に、ダニー・ハサウェイの全作品CD化。これこそ真に一番凄い仕事だったと思います。
※ 今週は松尾潔多忙につき、書き下ろしコラムはお休みし、過去の原稿を再録いたしました。
文中の「シャロン」はシャロン・ブライアント、「オーティス」はオーティス・レディングのことです。また「ステット」はステッツァソニック、「ズルック」はズィールックのこと。
これがふたりの“A.W.”ナリ。
Vol.31「過去原稿再録:『BMR』(1989年1・2月合併号) 1988年 年間ベストCD / レコード」
- 2005-09-15 (木)
- column
1位 TEASE:I Can’t Stand The Rain (single)
2位 TEASE:Remember…
3位 GUY:Guy
4位 SCOTT WHITE:Success…Never Ends
5位 JAMES “D-TRAIN” WILLIAMS:In Your Eyes
6位 LEVERT:Just Coolin’
7位 RAY, GOODMAN & BROWN:Mood For Lovin’
8位 E.U.:Da Butt (single)
9位 FREDDIE JACKSON:Nice ‘N’ Slow (single)
10位 JOHN WHITEHEAD:I Need Money Bad
ティーズの3rdにはマイった。駄作が1曲も無い。前作、前々作(RCA)を聴き直しても、兆しは殆ど感じられない。イッキに来た。正にTingleの連続。カヴァーの渋いセレクトも話題になったが、オリジナルに漲る生命力にはただ平伏すのみ。エムトゥーメイズ・マジック。Take it “Tease-y”!!
潔い中にもソウル臭が立ち込めるスコット・ホワイト。ハッシュ流儀のアップは、此処にひとつの完成を見る。ラフィン兄弟形式の即席アルバムをジョン・ホワイト(実のイトコ)と作って欲しいのは僕だけであろうか。
リヴァートに関しては、プロデュース活動も含めた上で6位。ゴ・ゴのメジャー処理に磨きがかかる。Say ooh-ooh-ooh!
尚、次点はブルームフィールド。
※今週は松尾潔多忙につき、書き下ろしコラムはお休みし、過去の原稿を再録いたしました。
ときに20歳。手書き入稿です。ことさらに漢字多用の文章は若さゆえ、でしょうか。
TEASE『Remember…』
松尾潔(当時20歳)が選んだ88年度ベストワン作品。
Vol.30「過去原稿再録:『学食巡礼』琉球大学編」
- 2005-09-09 (金)
- column
ビデオ撮影の仕事で出張した。だが、よりによって到着日に例年より10日以上早い梅雨入り。晴れ間を待つひとときを利用して琉球大学へと車を走らせた。
レンタカー屋からもらった地図を広げると、琉球大学は高台の上に位置している。しかし、学校が近づいても坂道を歩く学生の姿が見当たらない。はて休みではと不安を抱えたまま上がっていくと巨大駐車場にたどり着いた。窓を開けて徐行しながら空きスペースを探す。
停車する頃にはさっきの不安は氷解していた。ほとんどの学生は自転車もしくはバイクによる通学なのだ。この立地じたい、自動車社会が前提になっている。赤錆にまみれた状態の車が何台か見られた。ここはアメリカか。が、数多い軽自動車はここが日本の地方都市オキナワであることを示す。
キャンバスの随所に生い茂る緑が目にしみる。あれはなんという名前なのか、花弁の青紫色はここが亜熱帯であることを雄弁に物語る。中央食堂と示された矢印だけを頼りに歩を進めることにする。すれ違う男子学生のなかには、顔の造作が沖縄出身であることの証左となるハンサム君も多い。自分の薄い顔がちょっとうらめしい。
雨がやんだ。肌にまとわりつくTシャツが蒸し暑さを増幅する。午後1時、中央食堂の前は男女学生でにぎわう。遠目には首都圏の学生と何ら変わりない。が、すれ違うと語尾が上がる独特のイントネーションが耳に心地よく飛び込んでくるのだ。意識すると、ことさらにその種の特徴を耳が拾ってしまう。旅人の偏った思い出とはこのようにして形成されるのか。
中に入る。まずカウンターで注文し、品を受け取り、後でまとめてレジで清算するオーソドックスなシステム。自分をびっくりさせてくれるような海の幸はないかと思ったが、品揃えは普通も普通。チャンプルーもない。まあそんなものかな学食。東京下町の学食だってもんじゃは置いてないしな。
軽い失望を覚えつつ、麺類のコーナーへ。と、大林宣彦三部作の尾美としのり少年を思わせる、うるんだ眼差しの男子学生が厨房の女性に声をかける。「ソーキそばある?」。おっと、がしかし、人知れず興奮する私の期待もむなしく、彼女は「ないねえ」と。はあ。が、再びしかし、彼女はこう続けたのだ。「沖縄そばならあるよ」と。
2分とたたず「沖縄そば」は出てきた。ソーキ(骨付き肉)ではなく三枚肉がのったそばである。無性に感動した私がその注文を繰り返したのは言うまでもない。それと、南国気分を出すべく生パイナップルを1皿。濃厚な地域色は旅人の自己演出の産物なり。
レジ前からホールを見渡す。やはり端正な顔立ちが多いなあ。ISSAはいなくともKENなら結構いる。DA PUMPでいうとね。女子も上原多香子はいなくとも早坂好恵ならいる・・・・・・かも。清算が回ってきた。税込みで計436円。レシートには「371キロカロリー 塩0.2g」とあった。
*今週は松尾潔多忙につき、書き下ろしコラムはお休みし、過去の原稿を再録いたしました。
松尾潔著『学食巡礼』(扶桑社・2002年)より。
初出は『週刊SPA!』2001年6月6日号。
Vol.29「漂えど沈まず」
- 2005-08-31 (水)
- column
隔週連載化しているこの本コラム、奇特にもチェックしていただいている皆さんには、ただもう感謝そして深謝であります。今週書き落とすと8月の純粋な書き下ろしコラムは僅か1本になるところでした。今思えば連載当初から「毎週水曜日頃更新」なんて多分にエクスキューズ臭プンプンなフレーズを添えるあたりが私の自分に甘いところですな。「頃」はないだろ、「頃」は。
あんなに恨めしかった暑さも、明らかに下り坂にある今となっては、どこか名残惜しくさえあります。夏よ、行かないで。とか言ってみたり。うん、「行かないで」の前に来る季節名としてはやはり夏がベストですな。これがスキー部員だったりすると冬だったりするわけでしょうか。心当たりのある方はどうかご一報ください。
さて、山下達郎さんの7年ぶりのオリジナル・アルバム『ソノリテ』が9月14日に発売されます。その1曲「KISSからはじまるミステリー」のプロダクション・コーディネイトをお手伝いしました。「KISSミス」といえばKinKi Kids初期の名曲ですが、オリジナルでは作詞ご担当の松本隆さんがお書きになっていたラップ・パートを、今回はケツメイシのRYOさんに新たに書き下ろしてもらい、客演もお願いしました。これは私の(プロデュース名義ではなく)プロダクション・コーディネイト(PC)作品の中では快心の1曲となりました。是非ご一聴いただきたいです。
他の方ならいざ知らず、私がプロデュースというクレジットを使う時は、曲作りの構想からマスタリングに至るまでの一切の責任を負っています。TVタイアップがついている時は番組のプロデューサーととことん議論することもあります。しかし、そういった一連のプロデュース作業のある部分を特化して請け負うPCの場合、プロデュースの制約から開放されてイマジネーションが湧くことがあります。これがPCの醍醐味。ある意味において私はプロデュースよりPCのほうが向いていると思います。漂えど沈まず、が。
以下、これまで特に思い出に残っているPC作品ベスト3。その挿話とともに。
・SPEED「STEADY」(1996年)
当時はTLCが飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍中でした。私は「Waterfalls」のプロデューサー、オーガナイズド・ノイズの頭脳であるエンジニア、ニール・ポーグをミックスに推挙。待つことしばし、アトランタから最高の音が届きました。がしかし、SPEEDの事務所トップの「この音は黒すぎる」というご判断でお蔵入りに。2000年のベスト・アルバム『Dear Friends 1』に”Atlanta Mix”名義でようやく陽の目を見ました。そういえば1996年はアトランタでオリンピックが開催されたのでした。開会式の音楽監督はジャム&ルイスでしたね。なお、ニール・ポーグは最近ではTAHITI80の新作に参加しています。
・小泉今日子「夢の底」(1998年)
アルバム『KYO→』の収録曲です。『KYO→』は楽曲を一般公募したという画期的なアルバムでしたが、私はこの審査団の一員でした。なかでも特にお気に入りだったのがこの曲。その頃私がブレーンとして関わっていたMISIAを誘ってアドリブをフィーチャーしました。あと、当時としては珍しかった「アルバムの特設ホームページ」の運営にも私は関わっており、スペシャル・コンテンツとして小泉さんと一緒にショートショート・ストーリーを何本か創作しました。今で言うコラボってヤツですか。あれ、本にならないかな。先日ある結婚式で小泉さんにお会いして、そのコラボを久々に思い出しました。アルバム・プロデューサーの田村充義さんのお仕事ぶりにはたいへん影響を受けましたね。
・鷺巣詩郎「SWEET INSPIRATION」(2000年)
アルバム『SHIRO’S SONGBOOK 2』の収録曲です。参加陣が豪華でして、ロンドンからFREEDOM GOSPEL CHOIR、東京からは佐藤竹善、平井堅、露崎春女(現Lyrico)、MICHICO、中西圭三、そして吉田美奈子の諸氏。東京勢のレコーディングは、美奈子さんを除く5名が一堂に会して原宿の某スタジオで行われました。チャリティー等の公共的なイベントではなく、鷺巣さん個人の作品制作ですからね。こんな集合レコーディングは異例中の異例でしょう。ま、美奈子さんの単独レコーディング日となった翌日のほうが余程エネルギーを消耗しましたが。
それでは、また来週。
Vol.28「短文集~その2~」
- 2005-08-17 (水)
- column
お盆も明けましたが、夏の陽射しは弱まる気配を見せません。
しかし、果てなく続くように思える夏にも、まあ果てはある。ちゃんとある。
依然としてじっくりコラム執筆に向かう時間が確保できず、申し訳なく思っています。先週はお盆だから書けなかったのではなく、お盆にもかかわらずプロデュースや作詞に忙殺されていたのでした。ほどなくその成果をご報告できると思います。しばしお待ちを。
数週間前の短文集を覚えていらっしゃいますか。存外に評判がよかったんですよ。結構な数のお便りをいただきました。というわけで、今週は2回目。
以下、最近思ったこと, 感じたこと、体験したことを端的に。ひと筆書きで。
・私の仕事場からほど近い渋谷の代々木第1体育館横に人工ビーチ出現。言うまでもなくパリ・セーヌ川のプラージュのマネッコです。スカパー!が企画した『スカパー!東京ブラージュ』なる期間限定の催事なり。砂はすべて中国からの輸入モノだとか。物流って凄いですねぇ。どこか神戸ルミナリエ、東京ミレナリオを思わせるこの企画は8月21日まで。私はすぐそばのプールのほうをオススメしますが。
・私の知人である「やなぎ みわ」さんが北品川の原美術館で個展を開催しています。タイトルは『無垢な老女と無慈悲な少女の信じられない物語』。いわゆる「女性性」の表現の第一人者としてご活躍中のやなぎさん。今回の写真、CG、ビデオを駆使した作品群も一貫して女性をモチーフにしています。私は先週末のオープニングパーティーに出席してきました。なかなか面白い個展でしたよ。ご存じの方も多いと思いますが、原美術館という空間自体が素敵ですからね。最近ちょっとイイ感じの品川エリアの散策も兼ねてお出かけになっては。11月6日まで。休館日は月曜日。
・亀蔵脱走! 悲嘆にくれる数日間。なんと今度は拙宅の庭に亀蔵よりさらに大ぶりの亀現る。とはいえ、無愛想は同じ。アイディアひらめかず、亀吉(かめきち)と命名。再び飼うことに。亀吉のことを好きになろうとしても、どこかに亀蔵の面影を求めている自分に気づいたり。これじゃ人間相手の恋と一緒ですな。がしかし、さらに数日後、近所で「逃げた亀をさがしてください」との貼り紙発見。む。これは。聞けば「2匹逃げて娘が悲しい思いをしています」と。この亀ですかと亀吉を差し出せば「これですこれです!でも、あと1匹!」ああ、亀蔵!みんなが亀蔵をさがしている!意外にして現実的な結末。突然のエンディングに心の穴埋まらず、結局ペットショップに出向き、小ぶりのミドリガメを購入。あらためて亀のオーナーとなる。命名・緑子(みどりこ)。
それでは、また来週。
Vol.27「過去原稿再録:『ef』(2002年7月号)松尾潔的音楽旅日記より」
- 2005-08-05 (金)
- column
『7月4日に生まれて』という映画がありました。さよう、7月4日はアメリカ合衆国の独立記念日です。その日に最も近い週末はジュライ・フォース・ウィークエンドと称され、全米各地ではいろんなイベントが催されます。ここ数年、南部のジャズの都ニューオリンズの風物詩として花火大会を上回る存在になったのが、アフリカ系アメリカ人女性に圧倒的な支持を得ている月刊誌『エッセンス』主催の音楽祭。総動員数30万人の宴が繰り広げられる数日間、街は褐色の肌一色に染まります。
その第1回となる95年、僕はその会場にいました。熱狂のうちに迎えた楽日の7月3日。ルイジアナ・スーパードームのステージに立ったのは大統領候補でもあるジェシー・ジャクソン師。師は先週末の6月30日に自死を遂げた女性シンガー、フィリス・ハイマンを悼み、10万人の観客がそれに続き黙祷を送りました。
アース・ウィンド&ファイアーのフィリップ・ベイリーが歌い上げる「ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」。このフィラデルフィア・ソウル古典曲は、同地出身のハイマンの名唱でもよく知られています。時にヒステリックに響くベイリーのファルセットにも、この時ばかりは言霊が宿っていました。もとよりこういう弔い方はハイマンのスマートな音楽的流儀に相応しかったので。
翌日、ミシシッピーの堤防に腰を下ろして観た花火には、寒気を催すほどの美しさが満ちていました。無論、旅人の感傷によっていくぶん増幅されて目に映ったのかもしれません。が、豊かな彩りは長身で知られたハイマンのゴージャスな美貌を、激しい轟音は彼女のディープヴォイスを確かに思い出させました。
夜が明けて僕はニューヨークに飛びました。フィラデルフィア生まれのハイマンは、ニューヨークでスターの座を射止めました。『ソフィスティケイティッド・レイディーズ』でブロードウェイに立っていたことも。そんなことを思い出しました。ホテルから同地在住の久保田利伸に電話を入れました。ふた月後に全米デビューを控えた彼の周辺には、奇しくも往時のハイマンのスタッフが何人もいて。デビューを祝福するための電話のはずが、気がつけばハイマンの話題になってしまったのは自然なことです。何より久保田さんは彼女の熱心なファンでしたし。
「先週の金曜日だったよね、亡くなったの。あの日、アポロシアターに行ったんだ。フィリスのコンサートが開かれることになってたから。でもその日彼女が自殺したことは知ってたから、どうするんだろって。それを自分の目で確かめたくって」いつもは軽妙なジョークでならす彼も、この日ばかりは違いました。「彼女のバンドがフィリスのレパートリーを演奏して、コーラスの男があまり上手くはない歌を唄った。ヘンな気分だった。その後ウィスパーズが出てきて弔いの歌を演ったら、さすがにぼくもジーンと…」
午後、服を買うために寄ったバーニーズ・ニューヨークの店員との立ち話で、僕はハイマンの告別式が今夜行われることを知りました。19時。レキシントン通り54丁目の聖ピーター教会。定刻を少し過ぎて到着したら、付近は黒人の人だかり。窓から見える壇には彼女のポスターが飾られているのが確認できます。「こんなに多すぎちゃ中に入れないわ」教会に入れないファンの口からはため息が漏れ聞こえてきます。が、その場を立ち去るものはひとりとしていません。見回せば、喪服に身をつつむ人も少なくありません。
こうしてフィリス・ハイマンは天に召されていきました。7月6日は彼女の46回目の誕生日でした。旅先でPCを利用することが一般的でなかった頃の話です。インターネットを経ることなく、肉声の情報に導かれてたどり着いた夏の葬列はしかし、実に趣深いものでした。
*今週は松尾潔多忙につき、書き下ろしコラムはお休みし、過去の原稿を再録いたしました。
『ef 』2002年7月号。連載コラムの第3回でした。
Vol.26 「過去原稿再録:『ef』(2002年5月号)松尾潔的音楽旅日記より」
- 2005-07-30 (土)
- column
パリのことを花の都と最初に呼んだのは誰でしょう。実際に足を運んでみれば、犬の糞も朽ちかけた建物も多い。いったん気にすれば、そんな「花ならぬ」細部ばかり目につきます。
とはいえ、セーヌ川の遠景や日暮れ時のシャンゼリゼ通りのように、美しいとしか表現できないような場所、瞬間もあります。住民はシャンゼリゼなんて行かないよ、と訳知り顔で言われようが構いません。だって、美しいんだから。
通俗的だとお叱りを受けることを承知で告白しますが、僕が旅先で楽しみにしていることのひとつに、感銘を受けた音楽や小説、映画の舞台となった場所で、作者や登場人物の追体験をするという行為があります。旅行者にとっては、そんなちっぽけな物真似もまた楽しいもの。
ときに、フランスにエルヴェ・ギベールという作家がいました。彼の作品『赤い帽子の男』で、喉の手術を終えたばかりの主人公=著者は医師に向かって「今すぐ牡蠣を食べに連れて行ってください」と懇願します。それほどまでにフランスの牡蠣は美味だということでしょう。
著者は文中で牡蠣を食べる店を限定しています。それは、古くから芸術家が集う場所として知られるモンパルナス通りの老舗レストラン「ラ・クーポール」。ギベールが著作の中でディナーに行く時は、まあ大概この店なのですが。
この正月にパリを訪れた際、パリ歴の長い知人夫妻に連れられてクーポールに行きました。これまでパリには何度か行ったことのある僕も、この店に行くのは初めてです。1927年につくられ、ピカソもフジタもヘミングウェイも通ったという聖地。当然、お目当ては生牡蠣!
店に着いたのは夜の10時近く。千人は収容できる店内は満員で、客の話し声で騒がしいほど。客層は社会人が中心です。さらに、深夜2時までオーダーができるためか、店のバーカウンターには自分の順番が回ってくるのを待つ客がいっぱい。カップルから職場仲間とおぼしきご一行まで、みんなよくしゃべること。
ギャルソンに聞かれるまま、まず人数を告げます。次に名前を、と思いきや、そのかわりにギャルソンは何の説明もなしに私に名札を手渡します。はて、名札?そこには小さく書き添えられた店名とともに「Igor Stravinski」の大きな文字が。
ストラヴィンスキーといえば、ドイツ生まれにしてパリで才能を開花させた作曲家。ということは・・・・・・鈍感な僕もさすがに名札の意味が理解できました。店内でパリ文化人の名前が連呼されていたのは、そういうことだったのですね。今夜この店で自分はストラヴィンスキーなのだ、と。
音楽業界の端くれにいる自分としては、この名前は身に余るほど。ただ、旅人の勢いで調子よく言わせてもらえば、パリがらみの音楽家ならいっそのことクインシー・ジョーンズがよかったなあ、なんて。
名前が呼ばれるまでの間にしばし連想に浸りました。クーポールといえば、ベルナルド・ルビッチ監督の名画「ラストタンゴ・イン・パリ」にも出てきたっけ。シャンペーングラスでスコッチを飲むマーロン・ブランド。気だるいなかにもダンディズムがありました。あの映像も、エコール・ド・パリの面影を強く残すこの店だからこそ・・・・・・と、妄想、もとい、連想を打ち破るギャルソンの雄叫びが。
「ストラヴィンスキー!」
どうやらテーブルの準備ができたよう。僕は飲みかけのシャンペーンを一気に喉に流し込みました。
*今週は松尾潔多忙につき、書き下ろしコラムはお休みし、過去の原稿を再録いたしました。
『ef 』2002年5月号。連載コラムの第1回でした。
Vol.25「短文集~その1~」
- 2005-07-22 (金)
- column
梅雨明けのこの暑さには閉口しますが、みなさんお元気でしょうか。
酷暑の中にもニュアンスの変化を感じる一瞬があります。例えば、午後1時にスタジオに入る時に感じた陽射しの殺人的威力が、小休止をとるべくコーヒーショップに出かける午後3時にはいくぶん弱まっていたり。地球は回っている。
さて、最近はじっくりコラム執筆に向かう時間が確保できず、申し訳なく思っています。今週もちょっと時間が足りないんですが、穴あけちゃうのは避けたいなぁ。自分の性格上、このままきっかけを失ってずるずると休載が続きかねませんから。
というわけで、とにかく何か書いてみよう、と。
以下、最近思ったこと、感じたこと、体験したことを端的に。ひと筆書きで。
・ドラマ『女系家族』の主人公・浜田文乃役の米倉涼子嬢、好演。当分の間は山崎豊子作品専属でいいんじゃないか、涼子さん。私は『黒革の手帖』の主人公・原口元子と浜田文乃は同一人物と思い込んで観ています。
・ミュージシャンにクールビズの概念はない。もとよりTシャツ着用派、環境省提唱のこの言葉の入り込む余地があるわけないです。とっくに実行してます。
・福岡ソフトバンクホークスの和田・吉武両選手をめぐる醜聞について。とにかく手紙の返事は受け取った人が書くべきでしょう。
・自宅の庭に20センチほどの亀が迷い込んできました。で、飼うことに。ペットを飼うのは20数年ぶりのこと。小学生の時以来です。実はその時も迷子の亀を保護して飼ったんですが、いつの間にか逃げられたという悲しい過去。それにしても餌を食べる亀の姿は獰猛ですねえ。あまりに愛想がないので亀蔵(カメゾウ)と命名。
それでは、また来週。
Vol.24「凡夫の悲しさ」
- 2005-07-13 (水)
- column
先週はどうしても更新できませんでした。
拙コラムを楽しみにしていただいている皆さんにはたいへん申し訳ないです。連載スタート以来、どんなに遅れても週一の入稿は何とか怠らずにきたのですが、先週ばかりはどうしても入稿できませんでした。理由はレコーディング・スケジュール等の物理的状況ではありません。私の人生を決定づけたひとりの男性が逝去したのです。
ご存じのように、ルーサー・バンドロスが7月1日に亡くなりました。
これまで特に説明することもありませんでしたが、私が代表を務める事務所の名前は彼の81年のソロ・デビュー・シングルのタイトルに由来しています。初対面の方に名刺を差し出した時、この事務所名にすぐ反応してお声をかけて下さることがあります。国内だと20人にお会いして1人の割合でしょうか。米英のR&B業界の方なら、まず十中八九。そんな時、私は不覚にもビジネスマインドを失してしまいます。好きなことを生業にしてしまった者特有の甘さなのかな。駄目だな、私は。
ルーサー逝く。この重すぎる現実にどう対峙すればよいのか。心の整理つかず、数日が過ぎました。本コラムにその想いと思い出を綴ろうと思いあぐねてまた数日。書いては読み直し、自分の文章力のなさに嫌悪すること数日。それでも書いては、消去。書いては、消去。結局今日に至りました。
彼の死後、久保田利伸さん、和田昌哉さん、川口大輔さんといったシンガーの方がた、それに私の元マネージャー・渡辺祐さんからも弔いの言葉をいただきました。「ご親戚でもないでしょうが」と気遣ってくださったのがありがたかった。
山下達郎さんは、メル・テイラー(ベンチャーズのドラマー)が1996年に亡くなった時にご自身が抱かれた感慨がちょうど今の私と同じようだった、と。当時達郎さんが雑誌「CUT」に連載されていた音楽コラムのメル・テイラー追悼文は、確かに今の私の心情を言い表しているような気がしてなりません。その書き出しは以下のようなものでした。
「形あるものは必ずいつか失われる時が来る。などと、頭ではわかっているつもりでも、凡夫の悲しさ、いざとなると動揺を隠せない。」
終生日本の地を踏むことがなかったルーサーのステージを、私は幸運にも5回ほど観ています。それのみならず、終演後の楽屋を訪ねたり、宿泊先のホテルを訪ねて長時間インタビューした経験もあります。そのことを知るファンの方がたから、本連載でその話を書いて欲しいとのご要望をいただいているのですが…ごめんなさい。その時期が来るのを待っていただけませんか。
いま私の手元には、彼とのツーショットのポラロイド写真があります。
彼のまるい笑顔は永遠のものです。その歌声もまた。
それでは、また来週。
Nelson George『Buppies, B-Boys, Baps & Bohos』
(1993年。2001年に増補版が刊行)
ルーサーについてのコラムを収録。最も優れた短評のひとつ
Vol.23「作詞といえば」
- 2005-07-01 (金)
- column
金曜日更新が軽く定着しつつある本コラムですが…ご愛読、感謝です。
早いものでもう7月。相変わらず慌しい日々です。ここで今すべてをお話しすることはかなわないのですが、実にいろんな方がたとお会いしていますよ。アイボリーブラザーズと7ヶ月ぶりにスタジオ入りしたり、某人気グループのメンバーのソロ作のお手伝いをしたり。久しぶりの韓国にも行きました。
松尾潔としては久々となる、作詞のみのお仕事も進行中です。プロデュースワークの一貫としてノークレジットのまま作詞に関わることがほとんどの私にとって、作詞のみのご依頼というのは実は数えるほどしかありません。昨年の椿さんとTakeくん(Skoop On Somebody)のデュエット「ヒカリ」以来でしょうか。あの時はプロデューサーのFace 2 fAKEとTakeくんから受けたご指名でした。
作詞といえば、思い出ぶかいのは久保田利伸さんの2002年のアルバム『United Flow』に2曲(「DO ME BABY」「MOONSTRUCK」)提供したことでしょうか。プロデューサーは当然久保田さんご本人です。普段の自分に付いてまわるプロデュースの責任(呪縛?)から解放され、明確な理由と共にディレクションを受けるのは新鮮な気分で楽しいものです。作詞家としてアーティストに向かい合うことが楽しい、という面も当然あります。
私にとって作詞家への発注作業は作詞の実作業以上に神経を使うものです。また、そうでなければならないと考えています。
以前に某アーティストAをプロデュースした時のこと。まずは人気作曲家B氏に曲を書き下ろしてもらいました。これがもう素晴らしかった。その世界観に何のバイアスもかけずにただスケール感だけを増幅したいと考えた私は、B氏自身の推薦もあり、B氏と組むことの多い新進作詞家C氏に詞を発注することにしました。
私が面識のないC氏にまずはお会いしようとしたのですが、あいにく遠く離れた地方都市在住とのこと。ならばせめて電話で打ち合わせを、と思ってC氏のマネージャーにそう伝えたところ「Cはアーティストともプロデューサーとも会わずに電話も使わずにイメージを作り上げていく主義です」との返答が。不自然さは感じたものの、なるほどそういう考え方もあるかと自分に言い聞かせました。「B氏さえCに一度も会ったことがないのです」というマネージャー氏の言葉には妙な説得力がありました。結局私はC氏の意向に従い、メールのやりとりのみでディレクションを与えていくことになりました。
結果できあがったものはなかなか完成度の高い詞でした。スタッフの評判も上々です。ただAがどこか晴れない表情をしていたのが気にかかったのですが、とにかくデモを録ることに。いざ聴いてみると、メロディと詞、声と詞の双方のマッチングもよい。これは完璧だと確信を得た私はAにその旨を述べました。するとAはやや思いつめた表情でこう言うのです。「確かにこの詞は最高かもしれません。私も好きなタイプです。ただ、ある箇所が私が学生の頃から好きな人気グループDのある曲に酷似しているのがどうしても気にかかるのです。今まで言い出せずにいたのですが、いざマイクに向かってみるとこのソックリ具合にはやっぱり抵抗を感じるのです。気にしすぎかもしれませんが…」
寡聞にしてDの曲をよく知らなかった私は、その曲を用意して恐る恐るAの新曲と聴き比べてみました。「気にしすぎ」ではなく、明らかにこの2曲は酷似していました。口の悪いスタッフは半ばヤケ気味に「Cさんアッパレ!」とさえ言います。確かに、聴く人によっては単にストレートな「引用」と感じるかもしれません。それほどの高い酷似度でした。私とスタッフ、全員一致でその歌詞をNGにしたことは言うまでもありません。C氏に大きな信頼と期待を寄せていただけに、私たちの失望も大きかった。
その決断を例によってC氏にメールで伝えたところ、すぐに返事がメールで届きました。そこには、洋楽好きのC氏はDを聴いたことがなかったこと、私に指摘されて初めて買って聴いてみたが、なるほど似ているかもしれないと感じたこと、もちろん悪意はないのだが、今回はご迷惑をかけてすまなかった…こんな内容が綴られていました。追ってマネージャー氏からも丁重なお詫びの言葉をいただきました。
このことで得た教訓は2つあります。まず、「作詞家・作曲家とはまずは会うべし」ということ。それだけチェックの機会が増えますし、顔を見合わせてのコミュニケーションはある種の抑止力として機能します。もうひとつは「J-POPをたくさん聴いて損はなし」という教訓。盗用するためではなく、無意識の引用を避けるために。この場合はアーティスト本人の指摘によって難を逃れることができましたが、本来その指摘は私やスタッフから出て然るべきもの。「オレ、洋楽しか聴いてこなかったんで」と、どこか自慢ぶって話すスタッフに会うことがありますが、個人的な音楽生活という趣味の次元で語るならともかく、J-POPを制作することを生業にした以上、そんな発言は職業態度として褒められたものではないでしょう。イイ歳しての無知ほど罪なものはない。自戒の意を込めて。
で、結局その曲の行方はどうなったかって?
私の命を受けた小山内舞がまったく新たな歌詞を書いて何とか形になりました。
そしてC氏……今でもよくB氏とコンビで作品を世に送りだしています。
それでは、また来週。
久保田利伸『United Flow』(2002年)
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